蕎麦の中にもきっとカーストはあるのだろう。十割蕎麦が頂点に君臨し、二八蕎麦はその尻に敷かれているかもしれない。その場合きっとカレー蕎麦や茶そばなどといった変わり種の蕎麦は、少し離れた位置で悠々自適に暮らしている。蕎麦たちは蕎麦粉の割合を高めて自分の立場を上げるべく努力しているが、そば粉の割合の競合に辟易した彼らは自ら進んでカレー蕎麦になることを望んだ。それはまるで人間界での身に着ける時計の値段の競合のように。腕時計レースにうんざりした人間が機能性を盾にアップルウォッチという「自由」を手に入れるように、そば粉の割合の競合に辟易した蕎麦たちが「自由」を求めてカレー蕎麦になるのだ。うどんやラーメンはそれを冷ややかに、もしくは生温かい目で眺めている。当然であろう。蕎麦の連中は、小麦粉のありがたみが分からない。蕎麦粉の割合を上げ、小麦粉を捨て自分の立場を上げている最中に、その外にいる大勢のうどんやラーメンから軽蔑されることに気づいてすらいないのだから。 (高梨辣油)
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