執筆者:UNO-T
プロローグ 兼好、転生する
元徳げんとく二年(一三三〇)。 鎌倉幕府の前執権・北条高時ほうじょうたかときと、その執事である内管領ないかんれい・長崎高資ながさきたかすけが実権を握り、その威をほしいままにしていた時代である。 御家人ごけにん――幕府に仕える有力な武士たちは、二人が身勝手にふるまう政治体制の現状を、腹立たしく思っていた。 それを見かねた当時の天皇・後醍醐ごだいご天皇は、かつて幕府を倒そうと画策したが、その目論見が発覚し、あえなく失敗してしまう。 そのことからすでに幾年かが経っていたが、天皇はいまだに倒幕の意志を変えず、幕府と天皇・御家人の間で緊張が高まりつつあった。 さて、大事変の匂いが漂うこの時代に、政治や世俗から距離を置き、閑しずかに暮らす一人の遁世者とんせいしゃがいた。 名を兼好けんこうという。 神職の家に生まれ、天皇に仕えて官人としての道を順調に歩んでいたが、ある時から世間を疎ましく思うようになり、突然出家して法師になった。 それからは、京のはずれに小さな庵いおを構え、日々畑仕事に励みながら、時折歌などを詠んで過ごしていた。 齢はすでに四十代も過ぎようかというところ。日々衰えていく肉体に無常の理を感じながら、雑念も晴れる穏やかな自然に囲まれ、そのひそやかな孤独を受け入れ始めていた。 そんなある日のこと。 いつものように畑仕事を終えた兼好は、夕暮れ時の食事を終えて、早くも眠りにつこうとしていた。 朽ちかけた畳の上に体を横たえて、目をつむる。 何度か寝返りをうって、ようやく兼好が寝息を立て始めたころ。 『――目を開けよ、兼好』 突如、荘厳さをたたえた声が、兼好の耳を通り、脳内に響いてきた。 「な、何者ぞっ」 兼好は驚いて目を覚まし、体を起こして叫ぶ。 目の前には誰もいない。 辺りを見回す。やはり、兼好の目には人影一つ映らない。 仏の道に入り、自然と一体になって、自己流ながら修行を積んではや二十年近く。 心の平静を常に保ち、大抵のものには動じないはずの兼好が、姿の見えない来訪者に、精神を揺さぶられている。 「我が前に出でよっ、何者なりやっ」 もう一度、虚空に向かって叫んだ。 すると、 『――汝なんじは仏の道に入いりて、幾年いくとせにかなる』 「……やや二十年はたとせになりぬ。これが如何いかに」 『――未だ仏の法、世間の理を、弁わきまえたらぬぞ』 「何っ!? この二十年を、徒いたずらとや言わん、寧むしろ其方そなたこそ理を弁えたらぬか」 兼好の語調はいつになく激しい。自分が貫き通してきた生き方を、聞き知らぬ声に否定されているのだから。 『――汝は無常を心得たるか』 「然しかり。万物は流転変化るてんへんげして止むことなし。栄えたる者は滅び、生まれし者は必ず死ぬ。これが無常と心得たり――」 『――浅知恵なり。真の無常とは、さも浅きものにあらず』 「何をっ――うおっ!?」 突然、兼好の身体が古畳の上から浮き上がり、得体の知れない光に包まれ始めた。 『――今より汝は、真の無常を知らんがために、旅に出でよ』 声がそう告げる間にも、光はどんどん兼好を覆っていく。 「やれ、そっ、其方は何者ぞ、また旅とは如何なるものに――」 兼好が訊きき終えるより早く、光が兼好の身体全体に満ちて、刹那のうちに消え去った。 静かな夜に、煌々こうこうとした満月の明かりが、空っぽになった庵を照らしていた。 (眩しい……、庵の外にでもいるのだろうか……。いや、日の光にしても眩しすぎる……) 兼好の意識が戻ったころ、彼のまぶたは強い光に侵されていた。 おそるおそる目を開ける。 (!? 何だこれは……? 白い天井に、太陽がへばりついている……?) 見たこともない光景に思わず飛び起きる。しかし、起きた先にも不可思議な景色が広がっていた。 (色鮮やかな几帳きちょう、書物の置かれている棚付きの高机たかづくえ、木の板が敷き詰められた床、それに……) 兼好は自分が先ほどまで横たわっていた場所に目を向ける。 (何だこの柔らかな筵むしろは……? 掛けるものと下に敷くものとがあるのか……? その下の台は、どこかで見たことがあるぞ。昔の貴族が使っていた、「御床みとこ」というやつだったか……) ふと、新しい寝床に目をやった折に、自分の脚が見えた。 (なっ……毛が無い!?) 今まで自分の筋肉質な脚を覆っていた剛毛は、一切見当たらない。そのうえ、脚自体も細くなっている。 腕も見てみるが、それも脚と同じ状態であった。 そのまま、手を頭の上にやる。 (こっ、これは……!) 常に剃髪ていはつしていたはずの髪の毛が、ある。それも、後頭部にたどっていくと、肩を通り越して、背中まで伸びていた。 ここで、兼好は一つの可能性に気が付いた。 そして、戦慄しながら、その手を髪から離して、己の「胸」に当てる。 控えめだが、確かな感触。 揉もむ。 柔らかさの中に、跳ね返すような手ごたえ。出家してからご無沙汰になっている、あの感覚。 兼好は確信を抱いた。 「……まさか、女になったのか?」 大正解。 部屋の隅に立てかけられた大きな鏡に、自身を写してみる。 そこには、年老いてやせこけた法師の姿はなく、代わりに色白で濡れ羽色の長い髪をもった、うら若き乙女がいた。 兼好は、 (なるほど……この姿は悪くないな) とのんきな感想を抱いたが、それからすぐに険しい表情で腕組みをする。 さて、どうしたものか。 まず彼(彼女?)が分かっているのは、今いるこの場所が、少なくとも自分がもといた世界とは異質であること。 そして、自分が「兼好」の意思を保ちながらも、外身は全く別の少女になっていること。 (まさか、「少女」として転生でもしたというのか……?) 仏道の徒である兼好は、輪廻転生りんねてんしょうの教義を当然知ってはいたものの、本当に起こってしまったのを目の当たりにして、動揺を隠せないでいる。 ひとまず、自分が生まれ変わった「目的」を探るため、庵の中で聞いた「声」を思い出す。 (確か、「真の無常を知るための旅」とか言っていたような……) いかんせん漠然としていて、具体的に何をどうするべきか、と兼好は半ば途方に暮れ始めた。 鏡の前でしばらく呆然と立ち尽くしていると、 『ジリリリリリリリリ――』 「うおっ!?」 突然けたたましく鳴り響く鈴のような音。兼好の耳をつんざいてくる。 (発生源はどこだ……っと、これか?) 兼好は寝床の枕元に、光を放つ小さな板を見つけた。どうやらここから音が聞こえてくるらしい。 (光る板なんて、見たことも聞いたことも無い……。しかも、よく見れば何か文字が表示されている。『アラ…ムを止めるには、このボタンを押してください』? とりあえず、ここを押せば止まるということか……?) 物は試しと、板に表示された丸い部分に指で触れると、耳障りな音はぴたりと止んだ。 兼好は胸をなでおろす。と同時に、板に四角い絵がいくつも表示されていることに気づいた。 先ほど音を止めたのと同じ要領で、それらをひとつずつ押していく。 ある絵は、押した先で文字を打ち込めるようになっており、紙の役割を果たすための場所と考えられた。 またある絵を押すと、今度は異形の怪物が板の中に現れ、武器を手にした人間がそれと戦っていた。 小一時間ほど探ってみた結果、この光る板はどうやら、一つで様々な機能を担う、非常に優れたものであるらしい。 (これを使いこなすことができれば、この世界で生きていくにも困らないだろう……) 兼好はそのような所感を抱いた。そして、この世界で暮らしていくための課題の一つとして、「光る板」の使い方を把握することを設定した。 (さて……) 兼好は、もう一つの課題をどうにかすることにした。 「言語」である。 (さっき「光る板」を見た限りでは、あそこに表示されていたのは十中八九「日本語」であると考えられる。「片仮名」「漢字」が見えたし、見慣れない書体だが「平仮名」らしい字も確認できた。 しかし、問題は、それによって記されている言葉が、半分ほどしか理解できないことだ。文章の構造は同じはずだが……) 頭を悩ませる兼好。 彼がふと例の高机に目を向けた時、ひらめいた。 (あの机の棚の書物を開けば、何か手がかりがつかめるかもしれない) そう思って彼は高机の前に赴く。 まず机の上を見てみると、物はきれいに片付けられていたが、ただ一つ、妙に写実的な絵と文字が記された、小さな札を発見した。 手に取って確認してみる。材質は硬く、木とも紙とも異なっていた。 そして、 (この絵、さっき鏡で見た自分の顔と、瓜二つだ……) 気味が悪いほどである。どんな絵師であっても、ここまで精巧に人物の顔を描くことはできない。 奇怪ではあるが、ひとまずはこの札に記されていることが、この「少女」の情報らしい。 (「吉田芳佳よしだよしか」「……年……月……日生」「浦辺うらべ高校学生」……) 生年月日らしい部分の記号は読めなかったが、「少女」の名前、それから「浦辺高校」という教育機関の学生であるらしいことは判明した。 要は、この「吉田芳佳」という少女の身体に、兼好の精神が入っている状態にあるようだ。 (なるほど……、どういうわけか知らないが、これから自分は「吉田芳佳」として生きていけ、ということだな) 一つ新事実がわかったものの、今は言語の解読が先決と考え、兼好は再度本題に戻る。 高机の棚に並べられた本の中から、適当なものを取り出して開いてみる。 (うーん……、確かに日本語の文章だが、やはり所々意味の分からない言葉が見えるな) ほかの本も一応読もうと試みるが、書いてあることがいまいち理解できない。このままでは何も進展しない。 万事休すか。 そう思いながらふと棚を見やった時、ある本の背表紙に目が留まった。 兼好はその分厚い本を取り出して、その題を読み上げる。 「古語……辞典……」 それがことばの辞書であることは、兼好にもたやすく理解できた。 わずかな期待を胸にその辞書を開くと、見えた。 見慣れた言葉、仮名遣い。そしてそのあとに示される、「この世界」の日本語。 そして、もう一度題を見て、彼は気づいた。 (これに載っている言葉が「古語」であるなら、この世界の言葉が「現代語」。 つまり、ここは自分たちにとって「未来」の、日本である、ということか……?) 兼好は、今自分が置かれている状況を、だんだんと理解してきた。 自分は、「真の無常を知る旅」のために、未来の日本に飛ばされた。 そして、その際に魂はそのままで、未来人の少女の姿になってしまった。 また鑑みるに、自分の目的はこの世界で、少女「吉田芳佳」として日々を過ごしながら、「真の無常」を会得すること、であるらしい。 ここまで理解すれば話は早い。 (まずは未来の日本語を修得して、それからこの世界についての知識を得なければ……!) 明確な目的を獲得した兼好の胸には、俄然がぜんやる気が湧いてきた。 彼は「古語辞典」を片手に棚の本と向き合い、「未来日本語」と「世界の知識」を貪欲に学んでいくのであった――。 穏やかな日差しの注ぐ朝。 やかましく鳴り響くアラームを止め、机に突っ伏していた兼好は起き上がる。 (あれから夜通し知識の吸収に励んでいたが、気が付いたら寝落ちしていた……) 睡眠時間も三時間がいいところだろう。寝ぼけまなこをこすりながら、部屋を出て階段を降りる。 一階の広い部屋にたどり着くと、ダイニングテーブルにはすでに、朝食が湯気を立てて並べられていた。 「あら、おはよう芳佳。今日は入学式だってのに、起きてくるのがちょっと遅いんじゃないの」 ふと耳に入る、女性の声。「吉田芳佳」の母親だ。 「母う……お母さん。ちょっと調べたかったことがあって、寝るのが遅くなっちゃって……」 「そう、まあいいわ。早く朝ごはん食べちゃいなさい。お父さんも」 そう言って「お母さん」の目は、ソファに座って新聞を読む一人の男性に向けられる。 「ああ、僕もそろそろいただくよ」 兼好が椅子に座る頃に、「お父さん」は新聞をわきに置いて腰を上げ、食卓に着く。 母親も父の隣に座ったところで、全員が合掌をし、 「「「いただきます」」」 この世界に来て初めての食事は、皮肉にも自分にとってなじみ深い、和食だった。 糊のりがきいたワイシャツ、ブレザー、スカートを纏まとうと、少し動きにくいが心が晴れやかになった。 黒地の二―ハイソックスを履き、長い髪を後ろに結ぶ。 鏡に映った自分の姿を目にして、「彼女」はくすりと微笑んだ。 真新しい通学カバンを肩に提げて自室を後にし、階段を降り、玄関に向かう。 ピカピカに磨かれた靴を履くと、それが足を固く締めてきた。 何もかもが、自分にとって未知の世界。 しかし、不思議と大きな不安は感じられなかった。 時間は違えど、空間は同じ。 その事実が、ひそかに安らぎを与えていたのかもしれない。 とんとん、とつま先を鳴らして、 「いってきまーす!」 大きく叫んで、ドアを開ける。 それと同時に、兼好――いや、女子高生・吉田芳佳の「旅」が、幕を開けた。
※本作は、同サイトに掲載されている雨野瀧様のエッセイ『JK徒然草』とは、何の関係もございません。ご了承ください。
兼好法師の随筆『徒然草』を、日常系ライトノベル風に翻案した「フィクション」作品です。そのため、歴史的事実や一般的な解釈との相違がございます。そのことを念頭に置きながらお楽しみください。
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